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気になったこと、つれづれ。

9月2日にルイス・ブニュエル作品のDVDが、1500円で販売されることは知っていた。アマゾンさんがツボを押さえたメールをよく送ってくれるから。「小間使の日記」、「ブルジョワジーの密かな愉しみ」、「欲望のあいまいな対象」、この3作品は買っとかなきゃと、昨日、アマゾンさんを久しぶりに訪ねてみた。
ルイス・ブニュエル…全部売り切れ。へっ?まだ発売されて2週間も経ってないのに?。マーケット・プレイスでは、既に2500円の高値だ。値上がりを見込んで、買い占めちゃう人が増えたような感じがする。許せないなぁ。そこまでして欲しいものではなかったので、サッサと諦める…。
ついでに、新作DVD情報もチェックする。
「ブリキの太鼓」リマスター版が10月23日発売。これはもう20年以上も前に観た。大学で、はじめて親しくなった先生がドイツ通で、映画好きならこれを観なきゃーと紹介してくれたのだ。難しい映画の割には(今見ると、そうでもないかもしれないけど)、今でもとても印象に残っている。まだ青臭かった頃、なんか小難しい映画観たなーという充実感に浸った映画の一つ(笑)。その先生とは、卒業まで付き合いがあって、いろんな映画の話をしたことを憶えている。ブニュエルのこともあったので、すぐに予約。先生、元気かな?。会いたいな。
アマゾンでは、ポチッとすると、この作品を買った人はこんな作品も一緒に買ってますという具合に、これがまたそそられるDVDをいつも紹介してくれる。「ブリキの太鼓」と一緒に購入された作品は…
 「アマゾネス ヘア解禁 ニューテレシネ版」!。 ええっー!!!!( ̄⊥ ̄ノ)ノ 
ビックリしたけど、「ブリキの太鼓」と「アマゾネス」を一緒に買う人、私、好きかも。この幅の広さに、映画に対する愛を感じるな。「アマゾネス」は観たいけれど、買うのは止めておいた(^^ゞ。
ついでに、紀伊国屋のHPに行き、新作コーナーもチェックする。
デ・シーカ監督「ひまわり」が12月に販売されるのを知った。今、ヤフオクでも、アマゾンでも、「ひまわり」は1万円台の価格がついている。もう、そんな価格がはびこってるDVDは、どんどん再販してほしいもんである。
気長に待てば、名作なんかは再販売されるんだよね。ブニュエルも今回は残念だけど、また気長に待ってみよう。それも楽しみかな。

日経新聞「テレビ局の映画作り」

9月5日、日経新聞の文化面に「テレビ局の映画作り」という記事が載っていた。98年『踊る大捜査線』のヒット以来、テレビ局製作の映画が増えつづけ、好調である。記事は、テレビドラマの手法が、映画にそのまま持ち込まれることで、「映画づくりのセオリーを大きく変えつつある」という内容。
テレビ局関係者の映画作りに対する意見が紹介されている。長くなるが、興味深いので、抜粋しておこう。「『映画』を作っているつもりはない、目指すのは良いコンテンツ」、「作家性のある良作より、お客さんが見たい映画を作る方が重要」、「破綻のあるなしより観客へのサービスを最優先する」。「そのためスターを出す、海外ロケをするといった『観客の喜ぶ』要素を盛り込む。話のつじつまが合わない、真実味を欠くといった批評レベルの欠点があっても目をつぶる」、「演出に求められるのは第一に『分かりやすさ』」。
そして、『アマルフィー』のエンドロールに脚本家のクレジットがなかったことに対し、シナリオ作家協会は「脚本家軽視」であると抗議したという記事が続く。テレビ局にとって重要なのは、ウケることであり、脚本内容は軽視される。観客も作家性の強い映画を敬遠すると、分析される。
この記事を読んで、20年以上前の香港映画プロデューサーのインタビューを思い出した。「脚本は邪魔。ストーリーはなくていい。セリフもできるだけ少なく。観客はアクションを求めているのだから、アクションをたくさん見せればいいんだ」。
80年代前半くらいまでは、ブルース・リー、ジャッキー・チェンなどのスターによって、世界的にカンフーが注目されたから、それでも良かった。でも、80年代にカンフーが飽きられてくると、アクションを見せりゃいいという短絡的な映画作りが、自分の首を絞めたのではないかと思う。現に、香港映画は衰退を辿っている。90年代に、脱カンフーがはじまり、ジョン・ウー、ウォン・カーウァイら、作家性の強い監督が登場したことにより、香港映画はすこし盛り返したが、その後に続く映画人が育っていないのが現状である。
日本映画も同じ道を辿ってはいないだろうか。
テレビドラマと映画は違う。テレビドラマは連続ものが多くを占め、大体1回45分くらい。短い時間で、視聴者を惹きつけ、次回へ繋げなければいけない。ちょっとぐらい破綻しても、リアリティがなくとも、視聴者が憧れを抱く設定をつくり、ストーリーは多少大げさにして、1回1回話の山場をきっちりと盛り込む。どんな人も、だれかに感情移入できるよう、違ったキャラクターの役柄をいくつか準備し、注目度の高い役者を起用する。画面は小さいから、カット割りは、俳優のアップの切り返しが多くなり、役者の演技も大げさ(大根という意味ではなくて)。ワクワクしながら、毎週見る楽しみがある。
これに対して、映画は、監督の裁量が大きい。映画は、脚本、役者の演技、カメラ、映像技術、音楽、メイク衣装、カット割り、演出、それらを取りまとめる監督の作家性…芸術・文化・技術の総合によって、生まれる。監督は、そうした映画を構成する要素一つ一つをどう演出するか、こだわることができるから、作家性が発揮でき、表現も豊かになるのだと思う。ひとつのテーマや素材を掘り下げ、細部まで描写し、リアリティ・真実味、言葉にはできないような複雑な心理まで表現することができる。単にストーリーだけでなく、こうした構成要素ひとつひとつの豊かで、細やかな表現方法が、観客に深い感動や面白さを与えるのだと思う。
それは、荒唐無稽がいけないという意味ではない。ファンタジーでも、コメディでも、その作品の世界観のなかでの設定やリアリティがある。『ハリー・ポッター』だって、あの細かい設定、魔法世界のリアリティ、そこで繰り広げられる事件、人物の成長などが面白いのであって、設定に破綻があったり、何でもありのご都合主義だったら、たちまち底が浅くなる。
しかし、テレビ局製作の映画は、テレビドラマ手法がそのままスクリーンに持ち込まれる。それは、新しい表現手法というよりは、今まで映画人が長年かけて培ってきた豊かな表現手法を退化させているようにも見える。私も、何本か見たけれど、ストーリーは単純、過剰な説明、観客ウケを狙う脈絡のない小芝居、スクリーンの大画面で俳優のアップの連続。途中で飽きる…。
そんな作品でもヒットする理由は2つ。一つはテレビ局番組での宣伝。色んな番組に俳優がゲスト出演し、番宣しまくる。2つめは、ふだんは映画を見ない人でも、そのドラマや俳優が好きなら、映画館に足を運ぶからである。
悲しいが、良い映画が儲かるとは限らない。
私が不安になるのは、次に映画を担う人が育たなくなるのではないかということだ。内容・表現も単純で、「分かりやすい」映画を見て育った世代が、次にどんな映画を作るのか。もちろん、若い人のなかには、良い作品を見分けられる映画ファンもいるだろう。しかし、ヒットするからと、空疎な映画ばかりが大手をふるうと、本当の映画好きの層は薄くなっていくのではないか。層が薄ければ、良い映画人は育たないような気がする。
日経新聞の記事は、映画評論家・樋口尚文氏の次のような言葉で締めくくられている。「存在感を増したテレビ局には、日本の映画市場に対する重大な責任がある」。「空疎な作品を作って観客を失望させると、中長期的には映画市場全体を縮小させてしまう」。
「真の実力が問われるのはこれから」とまとめているが、上記に抜粋したようなテレビ関係者の映画作りの姿勢を見ていると、悲観的になっちゃうな。